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声を持つこと。伝えること。伝えかた。



世界各地でいろんなことが起きていて、時事を追いかけているとちょっと疲れてしまいますが、現在アメリカでの抗議デモは自分の生活圏内で起こっているので、やはり現状が気になってしまいます。うちにいても外から抗議デモの音が聞こえてくることもあり騒がしく、つい数週間前まで食品の買い物に出かけることすら恐れていたアメリカなのに、短期間になんとも目まぐるしい変化です。


日本人からするとあまり実感が湧かない黒人差別問題ですが、自分はカリフォルニア以外にもアメリカ南部と言われる地域に住んでいたことがあり、そこでの白人と黒人のパッきりと別れた世界を垣間見て、根深い偏見問題に驚いた経験がありますので、今回のこの抗議デモが一時的なものでなく、しっかりとした形になってゆくといいなと願っています。


また、自分もアメリカに住んでいる有色人種としてこれまでに差別や偏見を体験したことがなきにしもあらずなわけですが、今回のことはあくまで「黒人」にフォーカスを当てて強調することが大切だと言われています。以前から問題になっていた白人警官と黒人市民の間の不平等で理不尽な事件。アメリカの黒人男性のほとんどが、警察に殺される可能性があると恐れていること、白人層のコミュニティーをただ歩いているだけでも逮捕されてしまうかもしれないこと、白人が多い地域ではスーパーマーケットに行くだけでもきちんとした格好をしていないと何か疑われてしまう可能性があるということ(かたや白人はパジャマのような格好でも何も感じていない)など、ただ普通に生活をしていく中でも不安や恐怖を感じたりすることが多いという現実を、白人がもっと知る必要があると言うのが今回の大きなメッセージです。


「白人特権 (White Privilege) 」と言う言葉を聞いた白人が、「自分は白人だからって特権があったと感じたことなんて一度もない。」と言ったりします。「白人特権は、たとえばトランプのような裕福な家に生まれてそのおかげで良い大学に入り社会的なステータスを持っている人たちのことで、自分のような貧しい家庭に育った白人にはそんなものはない。」と言う人もいます。または、「自分は子供の頃から太っていてそのことでずっと差別されてきた。白人だからって差別されなかったわけでない。」とか。


それに対して、黒人の人たちは「私たちが伝えているのは、それ以前の問題だ。」と言います。たとえば、黒人だからと言う理由で普通に買い物しているだけで疑いの目を向けられたり、歩いているだけで泥棒だと疑われたり、ただ集っているだけなのに危険な人たちとみなされたり、いい成績を納めていい大学に入ったのに、大学側や周りから「ここにこれてラッキーだわね」というような見下された扱いを受けたりなどなど、肌の色だけで即時判断されて起きる偏見を経験したことがない白人には到底わかることはないのだと。わからないだろうけど、自分たちの声を聞いて、理解しようと学んでほしいと言います。


これはアメリカにおける奴隷制度の時代からの根深い問題。 でも、これまでも歴史の中でも、理不尽な扱いに対して声を上げて抵抗し的た人たちがいるからこそ何かが少しずつ変わってきているので、「現実はこういうものだから仕方ない。」と諦めるのではなく、多くの人が集ってデモ抗議を行い、声を出して訴えることが何かにつながってゆき、やがて意識の低かった人が刺激されそして社会が変わってゆくので、今はそう言う歴史が変わってゆくところを見ているのかもしれないと思います。



自分の個人的なことに当てはめて考えてみる


ちょっと視点を変えて、これをきっかけに個人レベルで今回のことを例に当てはめて考えた時に、浮かんできた質問があります。それは、「理不尽さや不平等を感じた時、ちゃんと声に出して伝えることができているか?」というものです。アメリカで暮らす日本人としてだけはなく、日本に住んでいる時も、どこにいても。


たとえば日本人女性である自分は、日本の職場において、女性が男性と対等な立場で扱われない現実を体験したり、他の女性が体験しているのを見たり聞いたりしても、それを「そんなものか」とどこか深い部分で当然のこととして受けて流しているところがあったような気がします。水回りのことを女性がするのが当たり前だと思われていたり(決して嫌いではないのでいいのですが)、女性らしさを必要以上に求められているのを感じたり、仕事上ではあくまで男性のサポートをする役だと思われていたり、平等に評価されたかったら男性と同じ体力で仕事しなさいみたいな暗黙のプレッシャーを感じたり、頑張った成果が男性上司のお手柄のためだったり、など。


自分は決して気がつく方ではありませんので、たとえば食事会の席では男性に食べ物を取り分けてもらったりお酌してもらったりすることもある、大和撫子には程遠い存在です。社会の求める理想の女性像というもの完璧にできていたことは一度もありませんので、「女性だから」というようなことを大きな声で言うのはおこがましいことなのかもしれませんが、でも、学生時代が終わり社会に出た途端に感じた、あの「女性だから」と言う理不尽さに、時折心の中で強い反発を感じることがありました。それでも、それを伝えようとしたことはなく、「そういうものか」と受け入れてしまい、その中でなにができるかとかを考えることに意識を向けて、不満な気持ちを決して声に出して伝えたことはなかったように感じます。


伝えればわかってくれたのかもしれません。周りの男性陣は聡明な方々が多かったように思いますし、ちゃんと伝えれば、今後は気をつけると言ってくれたり、もしくは伝えたことを感謝してくれたかもしれないとすら思ったりします。・・・・というのは楽天的な考えで、実際にはうるさい女性だなと思われて終わることになったかもしれません(笑)。でも、どちらにしても自分には、「伝える」なんて言う選択肢があるようには考えていませんでしたし、伝えたからって何かいいことがあるのかな?と思ったりもしていました。言ったらその言葉に責任が生じるし、それに対して自分がもっと疲れるんじゃないかな?とか。そんなことを考えて、自分の「声」を失ってしまったように思います。


海外では、よく日本人のコミュニケーションのスタイルは、”Passive Aggressive”だと言われます。Passive Agressiveとは、直接的に意思を表現するのではなく、間接的に伝えようとすることです。日本人女性はとくにPassive Agressiveのワザを極めているとか冗談で言われたりするのですが、それはたとえば、男女間で衝突が起きた時に、日本人女性は黙り込んで沈黙の抗議をする、と言うようなことが例に出されたりします。これはまさに、「声」のない抗議ですが、これでは周りの人々は何が問題なのかを正確に理解することができませんので、その場しのぎの問題解決になり、のちのちに再び同じことが起こって余計に物事がこじれたりすることがあります。


インターナショナルな場では発言しなければ物事が進んでいきませんし、その発言もスマートにエレガントに行うことが必要だと感じることが多くあります。自分の「声」がしっかりと育たなかった自分としては、これまで何年もかけて、「自分の声を見つける」作業に取り組んでいますが、これがなかなか簡単ではありません。


だから尚更なのかもしれませんが、日本人女性の私たちはもっともっと声を持つことが必要なのだと思うし、男性に「知ってもらう」作業を続けていかなければならないと思います。恋人間、夫婦間ではできていたとしても、社会というシステムの中ではまだまだなことが多い現実です。女性と男性は生理学的に違うところが多々ありますので、役割が違っていてもいいじゃないと思うのですが、「どちらかが上でどちらかが下」というような考えを私たちが潜在的に持っているとしたら、それは決して広がりのある社会ではないと思います。世界ランキンでも、日本の男女平等ランキングは121位と言う、経済先進国としては驚きの位置にあります。(参考記事はこちら


まずは、日本人女性の私たちが、いつの間にか失ってしまった声を取り戻すことが必要だと思います。


長くなってしまいまいましたが、最後に。

元大統領夫人のミシェル・オバマの話ですが、彼女が夫バラク・オバマとの結婚初期の頃、「幼い子供たちの世話で自分のことが全くできない状況の中で、夫が仕事の後にジムに行って汗を流して帰ってきたことに不満を感じた」ことがあったそうです。最初は「なんであなただけ!?」と不満をぶつけていたそうですが、やがては夫婦間で似たようなことが起きても、不満をぶつけるのではなく、「私もジムに行きたいんだけど、協力してくれる?」というような感じで、具体的に伝えることができるようになっていったそうです。マリッジカウンセリングを受けていたことが功を成したと話していましたが、声を持つこと&伝えることに加えて、その伝えかたについて、ちょっと参考になるエピソードでした。


声を持つこと。伝えること。その伝えかたについて、個人的にいろいろと考えることが多い今日この頃です。


最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。


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